2011年3月11日 ソーシャルワーカーの一日

もうすぐ、3月11日がやってくる。

東北大震災が起きたとき、何をしていただろうか。

 

 精神科の病院でソーシャルワーカーをしていたわたしは、あの日、グループホームに入居しようとしている患者さんと、入居の準備にでかけた。不安と楽しみとでワクワクしてグループホームへと歩いていた、と思う。わたしも、長い入院生活から、自分の部屋をもって迎える新しい日に立ち会えることにわくわくしていた。荷ほどきをして、試しに泊まってみることにしていた。

 

 グループホームに到着して、スタッフに声をかけ、

いよいよ、今日自分の部屋で寝るんだねぇ、という会話をして、

「彼女の」部屋に向かった。

届いた真新しい若草色の布団をビニールのシートから出そうとしたとき、大きな揺れが来た。まだ、届いたままの、一人暮らし用の家具を、配置していない部屋の中で、大きな揺れに・・・動揺した。

 

 彼女の上に何か、落ちてきたら、これからの期待した一人暮らしが消えてしまう。

これまで一緒に築き上げてきた病院から抜け出した一人暮らしへの道を『失いたくない!』という一瞬の叫びが、わたしの心を駆け巡って、わたしは、うずくまった彼女に布団をかけ、そのうえから覆いかぶさった。揺れはしばらくして収まった。部屋からでてみたが、いつものグループホームの外の景色。いつもと変わりはなかった。

 

スタッフルームに行ってみた。

スタッフ 「だいじょうぶでしたか? だいぶ大きかったですよね」

わたし  「大丈夫。他の人は? みんなに声をかけたほうがいいかも」

 

 グループホームの住人は、みな、なんらかの精神障害がある。それ以外のことは、みな様々。性別、年齢、仕事を「していた/してない」、一人暮らし「初めて/ベテラン」、家族「いる/いない」などなど。すべて様々。ゆえにバックグラウンドはある程度知っているけど、地震「怖い(苦手)/怖くない(まぁまぁ大丈夫」までは知らない。病気と闘い、自分らしい生活を手に入れるために退院を目指すのにも、多くのチャレンジを要する人もいる。そして、入居してから皆、多かれ少なかれ、それぞれの課題や困難を乗り越えてきている。スタッフや、訪問看護、作業所など通所先の職員とか、誰かが伴いながら生活している。ひとりで戦うよりも、容易に乗り越えられたはずだ。イレギュラーな出来事にも「居るよ!」ということが伝われば、不安は増大しないだろう、と推測した。いま、起きている事態は、彼らも、自分もよく把握できていない、この、大きな揺れを、どう乗り越えていけばいいだろうか。でも、今度はひとりじゃない。一緒にだ、と、言い聞かせながら、メンバーの居室を訪問し、安否を確認した。すでにホームに居た人は、怪我もなく無事だったが、お留守の人もいた。しばらくして「ただいま」と、声がかかる。その度、スーパーの品物が落ちてきただの、店員さんが片づけていただの、おまわりさんはいつも通りいただの、道は混んでないなど、OBの誰それさんに会って揺れの話をしただの、ふんわりと、お互いの安否の確認や、街の情報をもってメンバーが帰ってくる。ひそかに、街の「非日常」が始まっていた。

 そんななか、同僚からの携帯が、着信音が中途半端になっては途絶えることを繰り返し、メールが着信した。回線が混雑していた。携帯ではまともに電話できなかった。何度目かの電話がようやくつながり「病院は大丈夫。そっちは?」「全然問題ないよ」とお互いの安否をひとまず確認した。自分を心配してくれている人がいる、ということは、自分が人を心配しなければならないとき、大きく背中を押してくれる力になる。

 

 地震発生すぐから、集会室のTVをつけた。ときどき、スタッフやメンバーが見に行った。しばらくして、恐ろしい光景がテレビに繰り返し流れ出した。濁流に街が飲み込まれる、今、起きている光景が映像で流れ出した。テロップの地名。みていたスタッフが悲鳴を挙げた。彼女の郷里が、水に飲み込まれていた。大急ぎで彼女が電話をかけだしたが繋がらなかった。被災地に限らず、日本中が揺れに、TVの光景に揺らされていた。

 

 夕方になり、近くのバス通りを確認しに行った。路線バスはいつもと変わらず走っているようにめた。でも、わたしは帰れなかった。駅まで出ても、電車は走っていない、ということがわかってきた。出張にでていた同僚が駅前の喫茶店から、何回もメールや電話をくれた。同じ方向に帰るので、一緒に動こうと声をかけてくれたが、メールも電話も思うように届かなかった。着信ばかりが確認できて、通話はその日一度もできなかった。結局しばらくして、車をもっているスタッフが、スタッフを家まで送り届けてくれることになった。当時住んでいた街よりグループホームに近い実家まで送っていただくことになった。

 

その日は、暗闇のなか、ろうそくやら懐中電灯の光のもとで、わたしは両親と微妙な再会をした。

 

あの日 3月11日は、金曜日だった。

これからどうしていくか、すこしずつ考え始めた。

大きな揺れと、テレビを通して感じる日本中の動揺に、何が起きているのか、全容が掴めないし、自分が何をすればいいのか、わからなかった。まず、身の回りがどういうことになっているのか確認し、明日の行動計画を立てるのがやっとだ。いつもは電車で行き来したが、電車は普通に動かない。実家の車で、自宅に荷物をとりに行き、自分と親の安否のためにしばらく実家で過ごすことにした。週明け、同僚をピックアップして、職場に向かうこととした。