東日本大震災 大きな揺れのあとの日々
東日本大震災 大きな揺れのあとの日々
2011年3月11日東日本大震災が起きた当日、わたしの暮らす地域では、津波や原発での被害から離れていて、大きな揺れとテレビをつけなければ、日常的にすらみえた。その日、歓送迎会をしていた連中は、電車が動かなくなったので居酒屋で飲み明かした、という話をあとからきいた。大変な被災をされた方もいるのに呑気な、とのお怒りもあろうが、どんなことが起きているのか、これからどうなるのかわからないなかで、悶々と苦痛に過ごすよりも、目の前の宴の続きをしたのだろう。
以後は、彼らにとっても窮屈な日々が続いた。
病院は、“計画停電”で、電気が使えない時間が生じるようになった。
“計画”されても、容赦なくストップされると、日常の動きも止めざるを得ない。
電子カルテもいちど止める。
大事なことは紙に残す。
少しでもお互いに安心し、そのために少しでも行為率よくするには、どう動けばいいか考える、そんな毎日。
給食を配るためのエレベーターが動かない。戦術で給食を病棟に届ける。
閉鎖病棟の電子錠が閉まらない。コメディカルのスタッフが扉の前で門番をする。
人員配置を買えたとて、非日常に対応しきれるわけでない。
患者に伝え、協力を求める。患者も、みな、非常事態を、頭で、身体で、心で受け入れる。
緊急事態をのみこみ、耐えておられた方が多かったように思う。
グループホームに試験的に泊まった彼女は、予定の泊数を超えても帰ってこられなくなった。病院までのバスもまたもに動かなかった。グルーぷホームのスタッフやメンバーと、いきなり来た非常時に耐えうるよう、実地訓練がいきなり始まった感じ。予定の倍以上の期間に伸びた試験宿泊を彼女は体験した。
脳の障害のために、がまんすることが難しい方もいた。病院の中にいるから、もっと不便になった街の様子はイメージもできないなかで、予定通りに返れない不甲斐なさを押しとどめられないようだった。あるおじいさんは、ケアマネや病院職員に、自宅に帰ることを留められ、「そんなばかなことあるか!」と何度も怒っていた。彼が一番世話になっていると感じている言語聴覚士が、繰り返し説得して、ようやくしぶしぶ納得した。
認知症の病棟でも、建物やサポートに直接的な影響はなかったのに、翌日あたりから、なんとなく徘徊や落ち着きのない様子が増えた。その様子から、認知症で、直接的な物事の理解や、言語などでの表現は制約を請けいているが、高齢の方は多くの人生経験から得た感覚での状況理解の力が残されていて、スタッフや家族、その向こうにある社会の不安を察知されているように感じられた。
非日常の方法が日常になり、徐々にもとに戻ることを望みながらもこれまでとは違うものを受け入れて、落ち着いていった。
あの時期を、病院という建物の中でいっしょに過ごしていた方々が、いまどうしておられるだろうか。