東日本大震災から11年 ソーシャルワーカーができること・すべきこと

東日本大震災から11年が経ち、わたしたちがこれから出来ること、すべきことは。

 

 東日本大震災の、地震津波、電子力発電所事故による影響は、真っただ中の地域に住む人にとってもさることながら、あれから月日が流れていも、わたしたちに心の中に、ぬぐいきれないかげりを残している。大切な人を失った人は多かったし、予定が崩されてたり、予想していない事態はおろか、計画しようにも経験したことのない状況下でどうふるまえばいいかわからなかった。競争することにも疎くなって、自分のごく身近なところしか見なくなってきていた日本社会が、ゼロ以下の状態なんだってことを急に意識して、とにかく人との繋がりで乗り越えようとしているように思えた。他者の幸いなくしては自分の生きざまも怪しいということも多くなった。

 

 わたしの居た東京の医療機関でも、さまざまなかたちで、被災した方がお見えになり、また、被災地へ地震の技術や能力を提供しに出かけた仲間もいた。仲間がでむくための手伝いなどのボランティアもあった。被災地の状況はとても辛かったが、直接的な被害のない地域でも、長く続く非日常は、わたしたちのメンタルヘルスに大きく影響していたと思う。普段言えることが言えなくなり、変化に不満をいうことを控えて我慢した。突然訪れた不便な生活を受け入れるよりなかった。

 あわせて、同じようなことがふたたび起きたらどうしようか、大切な人を失ったらどうしようか、守れなかったらどうしようか、という、自分に力の限界と、見えない大きな力の残酷さに抗えない悔しさや絶望を抱えて、身の置き所こころの向ける場がない状態だった。

 被災によって間接的に事業や財産を失い大変な思いをした人ももちろんだが、目に見えた被害はないけれども、負荷がかかりつけて精神面でも具合が悪くなる、それによって体調にも響いてくる人も当然ながらいた。精神的な不調を訴えたり、行動の障害へと繋がっているひとが、いろいろと経過や事態を確認していると、震災に端を発して調子を崩されていることもたびたびあった。10年以上立とうとも、症状が続いて苦しんでおられる方もある。

 

 わたしたちソーシャルワーカーは、あのとき何ができただろう。何をすべきだったんだろう。今、何をすべきなんだろう。これからどんなことができるだろうか。

 組織作り、仲間との連携、地域の在り方など、心がけから時間や手間のかかる話までいろいろと考えてしまうが、いかなるときもわたしたちにできることは、まず隣に居ることと、いっしょに考えることだろう。社会資源がぐちゃぐちゃになるなかで、あらたに構築することにも時間がかかると、わたしたちは何も道具をもっていないかのように思ってしまうけれど、わたしたちの一番の道具は、社会資源ではない。クライエントの意思決定を、個々人の人権を守るマインド、遂行するための対話なのだと思う。

 何ができるか悩む、何をすればいいのか考える、その前にクライエントの前まで進み話を聞こう、クライエントの隣に出向き声をかけよう、それもできない状況、同じものを見て、ともに感じよう。ということがまず、大事なんだと思う。

 震災を超えて、繋がることで乗り越えられる事柄もある、ということを社会が学んだ。震災前より、ソーシャルワーカーたちがずっと意識し、取り組んできたことだけれども、なしえていなかったつながりの幅と方法が一気に増えた。こんなに進むことなのなら、普段はなんだったのだろう、わたしたちの専門性なんてあるのだろうかと思ったり、わたしたちが何もできないような無力感すら感じたこともあった。わたしたちが、一般の市民のひとと違うことがあるとすれば、普段の経験の中でやっており、普段から社会資源を利用することに慣れており、そして、志しと資格を資するに必要な教育を同じくうけ、共有している倫理がある、ということだろう。方法は状況と時代によって変わるが、根本にあるものがなければ手技、資源があっても髄のあるものとして残ってはいかないし、個々の生活や生きざま、コミュニティは形成できない、成り立っていかない、脆く危ういものになってしまう。

 

と考えると、いまできることとしたら、いままだ終わっていない事態に対処しておられる方と共に在ること、課題を共有してともに取り組むこともさることながら、わたしたちの大事にしていることを、個々が確認し、互いに共有しあい、後進に伝えていくことなのだろう。わたしたちの存在を世にしってもらい、利用してもらうことを、日常の段階からしておくことだろう。それが、人と人との繋がり、地域での拡がりを導いていくのだろう。