退職予定日まで あと3ヶ月 ~転職理由の自覚~

 わたしの退職時期とは関係なく、日ごろの業務は淡々と続き、病院なのでアクシデントも日々起こる。その対処をめぐって、次に起こるかもしれない事態への準備をめぐって、“もっと効率的にやれば、支援にかける時間や人員の猶予ができるのに”とか、“支援に対する基本的な思いとか、中軸になるような理念が字ずらばかりで浸透していない”とか、“人材育成に対する病院全体の方針の曖昧さ、考えが一致していない”とか、あれこれが相変わらずな気がしてしまって、苛々が日に日に増していく。

 現職場での自分のスキルアップの限界を感じて踏み出そうと、前向きな気持ちでの転職のつもりが、現職場に対する否定的な気持ちが増大してくる。周囲には、前向きな気持ちを、転職理由にして話をしているけれど、決してそれだけではないという事実を、自分で自分に突きつけてしまう格好になって、気持ちが煮詰まった。

 

 これまでをふりかえってみても、職場の体制や人間関係に不満があるのに、まずそれを調整するなり腑に落とさないと、本業のケースワークに辿り着けない。新しい職員に教えるにも、ケースワークのほかにそれらへの対処を教えないとならない。結局、そこにエネルギーを費やすことになって疲れ切ってしまう。患者の前に行く前に蓄積した問題を解決しないとならず、患者の前に立った時には、疲労が蓄積している状態。患者の抱えている問題と組織全体の課題の間で、憤慨したり、興奮して、またエネルギーを費やす。

 よく、「患者のことだけ考えていたい」と思ったり、仲間と口にして溜息をついたことがある。この“患者”には、家族はもちろん取り巻く社会が含まれている。その社会に対して、医療チームとか、所属部署とか、所属機関は、“一緒に働きかけてくれる”と思いたい。もちろん、人の集まりだからそれぞれに考えの違いもあるし、いつもみんながいいコンディションというわけにもいかない。自分も含め一人一人も社会資源なのだから調整する対象、働きかけるべき対象だと言い聞かせてきた。ただそこには、共有できる理念とか、対人援助をする以上もっている倫理観、一緒に闘った経験からくる信頼関係で味方だという思いも必要だ。自分の所属が「味方」か、そうでないか、は普段、あれこれ考えることではなくて、肌で感じることだ。つべこべ考え出した時点で、「味方」でなくなってきているのかもしれない。

 また、職場である程度の地位にたったら、部署内の人間関係、部署間の調整はしかるべきだろう。けれど、「個々の臨床」と「所属間の調整」との分量のバランスが、ソーシャルワーカーの個人の気持ち、考え、経験と合わないとストレスは過剰になる。それはわたしだけではないように思う。

 

 最近になってようやく、わたし自身の怒り、憤り、諦め、無念、が心のバケツから溢れて、職務に向けてきた熱意が消えてしまった、ということに気づいた。いわゆる『燃え尽き症候群』なんだと気づいた。それを解消しようとして、振り返ろうとしたり、新しいことに取り組もうとしたりした結果の転職活動だったのか、ということにいまさらのように気づかされた。

 あらためて気づいてみたところでどうにもならず、数週間、ケースに向かう気力まで減退してしまい、これまでならあれこれ思いついたことや、先読みして準備してきた労力が避けなくなってしまった。病棟に出向くのも、ケースの前にたつのも、家族に連絡するのも、締め切り限界ギリギリ、もしくはそれも超えて事態が暗転する直前、必要最低限に留めるようになった。もっと関わったら、患者にも職員にも好転する機会が生まれることが経験上感じられるけれどしない。

 いい状態ではないのだが、まわりもそれを責めたりしない。そんな暇や余裕はない、ということもあろうし、「いえるほどちゃんとできてない」と思っている人もいるだろう。でも大半は、わたしがやらないことで自分の仕事が増えたり、侵害されるわけではなく、『自分で責任とるだろうから任せておけばいいや』と思っていたり、そもそも気づいていないのだと思う。自分の気持ちをばらまいたりして、人の気持ちをゆるがせたくもないし、気づかれないなら、前向きに転職をすすめるフリを最後までするしかない。「自分で決めたことだし」と心の中で呟くと同時に、辛さが急にこみあげてきた。

 

 しばらくして、先輩が、通りすがりに「大丈夫?」と声をかけてきた。その先輩は同じ部署では仕事をしていないが、長年いろんなことを話し合ったりしてきた。先輩の顔をみると無意識に頼る気持ちが湧いてきて表情にでてしまうのかもしれないし、何回もわたしが泥沼に嵌っている状況を見た経験からわかるのかもしれない。兎に角、先輩のアンテナの先に、自分がいるということがわかった。

 それからさらに数日して、先輩から「あなたの退職をどこからか聞いた人が、『ベテランが辞めるのには、組織に対する何かしらの思いがあるんじゃないか』って言ってたよ」と探るように話しかけてきた。数週間、自分だけで隠し持っていた、「バケツから溢れかえった」“絵”の存在を、先輩に気づかれてしまった、と思った。自分の計画が崩れたことに、むしろ安心感を感じた。

 

 転職、退職に際して、愚痴をこぼす人はこれまでにも何度も見てきた。でも、すべてを言えているのかどうか、とも思ってきた。声かけに気持ちを吐露する人もいたが、そもそも職場で話せる時間なんて限られているし、身近な人でなければ聞くときにはすでに退職日はすぐそこに迫っている。転職、退職の決心をするまでにキャリアコンサルティングを利用する人は多いと思う。けれど、決心して動き出したとにも、いくつも思いと向き合い、葛藤も生じる。いくつもの決心が待っている。転機、変化が、精神的なダメージの引き金になったり、それが身体の症状を引き起こすこともある。もっと身近にメンタルヘルスについて話せたり、転機を伴える人との出会いがあったほうがいいなぁと思う。SOSを出すことが得策だと知っているひとや、追い詰められたり、自己研鑽にへの投資を惜しまないひとでないと、なかなか労働者個人では、費用を出してまでコンサルティングを受けないだろう。けれど、いっときの投資が、健康の維持に繋がったり、自身の成長や能力の向上、生活や生きざまを好転させることに繋がるのなら、また悩みの時間が短縮したりより、考えを発展させられることが期待できるのなら、利用するだろう。ましてや、効果は個々人に対してではなく、個々人の思いを整え、成長を促すことが、組織の発展にも繋がるのだと思う。

 

 とどのつまりは、キャリアコンサルティングがもっともっと身近に、当たり前に、受けられるようになったらいいのに。ということが言いたいのです。

東日本大震災から11年 「今」思うこと。

11回目の3月11日が過ぎた。

 

東日本大震災が起きて、この11年で、何があったろうか。

 津波ですべてが押し流されていく状況と、街がさら地になったり、原発事故の影響で、人のいない集落の殺風景な光景を幾たびと目にした。泥をかきわけ、多くの人の思いと支援とが積まれて、復興とよぶにふさわしく、前を向いた歩みも起きた。今なお、ふるさとに戻れない人もあれば、ようやく戻れた人もいる。

 

 昨今では、被せるように新型コロナウイルスの感染拡大がおきた。大切な人を失った人もいる。震災とは別のかたちで、最期のときに会えない、ということも起きている。病気そのもの影響もだが、その後遺症に苦しむ人も多い。生活の不自由さが震災とは違う形で広がり、生活が一変して収入が途絶え、死を選ぶ人も少なくない。家の中に閉じ込められ、DVなど弱い人がさらに弱められるの状況も拡大している。

 直接的な健康被害をうけていないくても、世のすべての人といっても過言でないほど、みなが未曾有の事態を経験している。“予測していなかったこと”が起きれば、心への衝撃は大きい。すぐにその反応としてうつ症状がでたり、身体の不調が顕れる人もいる。すぐにでなく、日に日に負担が積もり、無自覚なうちに症状が進んでいる人もいる。次におきた出来事が引き金になって、大きく調子を崩してしまうこともある。これからも何か起きてしまうのではないか、この状態がいつまで続くのか、という不安が社会全体に蔓延している。

 病院で精神保健福祉士として働いていると、気持ちのバランスを崩した人と出会うことは多い。入院患者、家族、受診や往診、これから病院を利用しようとする人とともに、どうコロナに対処していくのか、自分らの生活上の不安も抱えながら考えている。震災前後を病院で過ごした者として、今を、これからを、どう過ごすとよさそうか、はっきりとしたことはまだ言えないけれど、普段から心がけておきたいことなど、思いつくことを記録しておきたい。

 

日ごろから挨拶をしよう。

 人は不調が起こりうることを念頭におきたい。気分の変調が起こりうること、心的負担が積もれば症状増悪の引き金になる。早めにきづくことで、早めの対処が可能である。早めに対処は、早期回復を促し、重篤化や、二次的な事故など最悪の事態の回避に繋がることを念頭において日ごろからすごしたい。

 そのために、簡単にできることとしては、挨拶やちょっとした声かけがある。わたしの顔を覚えてくれている患者に、挨拶をする。覚えてくれてなくても、挨拶をする。ユニフォームを来ていれば職員だとはわかるので、不自然なことではないし、毎回やっていれば、相手の挨拶がいつもと同じか違うかくらい、こちらも感じられるようになる。もし、「何かが違う」と感じたら、その人を知る他の職員と共有する。その日特別なことがなくても、その共有した記憶が記録へとなっていく。患者の側も病院側に知っていてほしい、と信頼を寄せているひともいるし、声かけが関係をつくる一歩にもなりうる。常に観察して変化に気づく目を養う。平素のときを知らなければ変化についても気づくことはできない。変化に気づくことは、よい変化であれば次にチャンスに繋げていけるし、悪い変化であれば、さらにその後の、予兆の察知に繋げていくことができる。挨拶を意図的にしながら観察する目を養っていきたい。

 

病院だからこそできる安否確認

 デイケア作業療法に来ていた人が来なくなった、定期的に通院していた人が来なくなった、ということを、病院側が気づけるシステムを構築しておくべきだと思う。病院にかかる人は、ひとりで暮らしている人もある。家族と親密な関係を持てなくなった人もいる。ほぼ、病院でしか人とのコミュニケーションをとらない人もいる。「病院による精神障碍者の抱え込み」といわれるが、関わりの幅を拡げる努力は進めつつも、病気と孤独とは隣り合わせていると思う。病気のせいで社会の隅に落ち込んでしまう時、病気に一番手を伸ばしている病院がなにもできないのはおかしい。気づいた後、どうするかはそれぞれの状況にあわせたそれぞれの対応を構築するとして、まず気づくことをしっかりとすることは、機械や事務方の協力を得ればできるのではないか。かく個人の石やセラピストの気づきに任せるのではなく病院が組織としてうけとめる方法があってもいいのではと思う。反面それが個々の患者の束縛になってはならないとも思う。来なくなったときにどうするのか、SOSをどう受け止めるのかについての対話も普段から治療関係の成熟のためにも必要だと思う。 

 

指示命令系統を意識して仕事をする。

 災害時の職務は多くのことへの気づきと、対処が求められる。自分ができることを精一杯するということのほかに、みなで対処していくための伝達、意思疎通、意思統一の手段を意識することが必要だと思う。

 急なできごとがあると、みなが真剣になるあまり、同じような連絡を何回もしてしまう場面がある。情報は重複して聞くことで、より確実性が確認できることもあるが、必要な連絡が、必要なタイミングでなされているかどうかの適格性も求められる。正確さを保ち、的確なタイミングでに連絡され、確認がとれることが望ましい。

 それらは、方法を決めておけば、できるということでもない。緊急の事態には何からしていいかわからなくなる。普段から繰り返し行っている方法であれば、誰かが欠けてしまったこと、何かがないことも気づくことができるし、欠如しているところへの配慮を伴いながら伝達できる。

 どこかに書いておいても、書いてあるものを取り出すことが身についていなければパニックに陥っているときにはなおさらできない。普段から書かなくてもしている程度のことであれば、だれかひとりの気づきがあって始めれば続いていくことができる。指示を出す人がいること、指示を出す人が誰かを周囲がわかっていること、周囲は指示を求めること、与えられた指示を勝手な解釈をせずに遂行すること、誤りや修正が必要な場合には指示をだした相手にもどるようにすることなど、指示命令系統のある組織づくり、普段からその系統にしたがって意思決定をする必要がある。病院の組織図、指示のフローチャートとあわせてそれを守れる、立ち返れる感覚を培っておくことが必要だと考える。

 

連絡をとりあえるネットワークの手段をいくつか用意する。

 困りごとがあったとき、投げかけたらレスポンスが返ってくるネットワークをいくつか(いくつも)持っておくことが必要だと思う。院内にはいろんなネットワークがある。病棟ごとの多職種連携、委員会などの係の集まり、同じ職種のチーム、同じ階層のチームもある。それらグループが重なり合っていることを意識しすることで、ひとつのネットワークで解決しえない課題も別のネットワークで解決できる可能性を期待するアンテナをもっておきたい。

 ネットワークを形成する手段は、組織のパソコンなどを用いたものもあるし、SNSもある。電話を用いたものもある。足を運んで、顔をあわせてのほうが多くの情報を伝えられることもある。さまざまな手段での伝え方があることを意識して、ひとつだめでも他の方法でやったら「三人集まれば文殊の知恵」たあることに期待したい。

 

ネットワークを交流させる架け橋になる。

 ソーシャルワーカーはそれぞれの担当で働きつつも、別の部署に出向いたり、病院外の組織との接点をもっていたりする。きっと、院内で「あちこちに顔が利く」一人だろう。もし、複数のソーシャルワーカーがいるとしたら、その顔利きは倍々に増えるとも言える。さらに院内だけでなく、他の病院や施設、行政など機関を普段から繋いでいる、架け橋になっている自分たちだからこそ、ネットワークとネットワークをつなぎあわせて大きなネットワークにしつつもまとめていく役割を担いたい。伝達の役割を担うこととともに、他の職種に伝達の方策を伝えて、さらに別のネットワークをつくっていくなどのサポートもできると思う。

 

連絡のとり方に強くなる。

 昨今のSNSなどコミュニケーションツールは、刻々と変化し利便性のあがるスピードも早い。コロナ禍で、なおさら発展を遂げているように見受けられる。多くの人に伝える必要性、多くの人から伝えられる必要性があるから、ソーシャルワーカーもコミュニケーションツールの活用の幅も増やしていきたい。若い仲間のほうが柔軟にとりいれていることもあるから、若い仲間にベテランが教えてもらうのも、部署内のコミュニケーションの円滑化にも繋がることも期待したい。

 

医療者としての自覚

 病院で働く以上、患者の命を守る使命がある。土壇場で自分の命と引き換えに人の命を守る、という選択を迫られることがあるかもしれない。そのようなときに何ができるかは、個々人の能力や考えだけに拠るのではなく、運命のようなもの、その後のそれぞれの人生のために、与えられた出来事なのではないと、わたしは捉えている。

 ただ、いざという時のためにも、土壇場以外は、不必要に自分の身を危険にさらさない注意も必要だろう。病院は、病気の人がいる。抵抗力の低い人がいて、病気になりやすい。病気は患者の健康を害しているとともに、自分の健康を害する怖れがある。つまり、感染症や、刺激によっておこる精神運動興奮が、職員自らの身を守る備えを常にする必要がある。基本的な感染予防の方法と手順、備品の在りかを確認しておく必要だろう。自分の身を守るということは職務の一環だと思う。

 

日ごろの職務の強みを生かす

 ソーシャルワーカーが、大事にしていることのひとつに「強みを生かす」ということがある。私たち自身、患者さん自身が、資源になりうる。

 普段と違う状況に追い込まれたとき、強みに着眼して状況を捉えなおしたうえで、エンパワメントにしていくことは、普段ソーシャルワーカーが意識し行っていることだと思う。自分たちの活動の根底を、渦中に置かれた時も発揮していこう。個々がもつ強みや、乗り越えられれば、合わせれば、さらに自信をまして大きな力にも変えられるようにも思う。

 

 

東日本大震災を経て、仲間が守ったもの、復興にとりくみ築き上げてきたものを大事にして、今も困難に立ち向かい続けるひとに寄り添い、これからにも備えていきたい。

東日本大震災から11年 ソーシャルワーカーができること・すべきこと

東日本大震災から11年が経ち、わたしたちがこれから出来ること、すべきことは。

 

 東日本大震災の、地震津波、電子力発電所事故による影響は、真っただ中の地域に住む人にとってもさることながら、あれから月日が流れていも、わたしたちに心の中に、ぬぐいきれないかげりを残している。大切な人を失った人は多かったし、予定が崩されてたり、予想していない事態はおろか、計画しようにも経験したことのない状況下でどうふるまえばいいかわからなかった。競争することにも疎くなって、自分のごく身近なところしか見なくなってきていた日本社会が、ゼロ以下の状態なんだってことを急に意識して、とにかく人との繋がりで乗り越えようとしているように思えた。他者の幸いなくしては自分の生きざまも怪しいということも多くなった。

 

 わたしの居た東京の医療機関でも、さまざまなかたちで、被災した方がお見えになり、また、被災地へ地震の技術や能力を提供しに出かけた仲間もいた。仲間がでむくための手伝いなどのボランティアもあった。被災地の状況はとても辛かったが、直接的な被害のない地域でも、長く続く非日常は、わたしたちのメンタルヘルスに大きく影響していたと思う。普段言えることが言えなくなり、変化に不満をいうことを控えて我慢した。突然訪れた不便な生活を受け入れるよりなかった。

 あわせて、同じようなことがふたたび起きたらどうしようか、大切な人を失ったらどうしようか、守れなかったらどうしようか、という、自分に力の限界と、見えない大きな力の残酷さに抗えない悔しさや絶望を抱えて、身の置き所こころの向ける場がない状態だった。

 被災によって間接的に事業や財産を失い大変な思いをした人ももちろんだが、目に見えた被害はないけれども、負荷がかかりつけて精神面でも具合が悪くなる、それによって体調にも響いてくる人も当然ながらいた。精神的な不調を訴えたり、行動の障害へと繋がっているひとが、いろいろと経過や事態を確認していると、震災に端を発して調子を崩されていることもたびたびあった。10年以上立とうとも、症状が続いて苦しんでおられる方もある。

 

 わたしたちソーシャルワーカーは、あのとき何ができただろう。何をすべきだったんだろう。今、何をすべきなんだろう。これからどんなことができるだろうか。

 組織作り、仲間との連携、地域の在り方など、心がけから時間や手間のかかる話までいろいろと考えてしまうが、いかなるときもわたしたちにできることは、まず隣に居ることと、いっしょに考えることだろう。社会資源がぐちゃぐちゃになるなかで、あらたに構築することにも時間がかかると、わたしたちは何も道具をもっていないかのように思ってしまうけれど、わたしたちの一番の道具は、社会資源ではない。クライエントの意思決定を、個々人の人権を守るマインド、遂行するための対話なのだと思う。

 何ができるか悩む、何をすればいいのか考える、その前にクライエントの前まで進み話を聞こう、クライエントの隣に出向き声をかけよう、それもできない状況、同じものを見て、ともに感じよう。ということがまず、大事なんだと思う。

 震災を超えて、繋がることで乗り越えられる事柄もある、ということを社会が学んだ。震災前より、ソーシャルワーカーたちがずっと意識し、取り組んできたことだけれども、なしえていなかったつながりの幅と方法が一気に増えた。こんなに進むことなのなら、普段はなんだったのだろう、わたしたちの専門性なんてあるのだろうかと思ったり、わたしたちが何もできないような無力感すら感じたこともあった。わたしたちが、一般の市民のひとと違うことがあるとすれば、普段の経験の中でやっており、普段から社会資源を利用することに慣れており、そして、志しと資格を資するに必要な教育を同じくうけ、共有している倫理がある、ということだろう。方法は状況と時代によって変わるが、根本にあるものがなければ手技、資源があっても髄のあるものとして残ってはいかないし、個々の生活や生きざま、コミュニティは形成できない、成り立っていかない、脆く危ういものになってしまう。

 

と考えると、いまできることとしたら、いままだ終わっていない事態に対処しておられる方と共に在ること、課題を共有してともに取り組むこともさることながら、わたしたちの大事にしていることを、個々が確認し、互いに共有しあい、後進に伝えていくことなのだろう。わたしたちの存在を世にしってもらい、利用してもらうことを、日常の段階からしておくことだろう。それが、人と人との繋がり、地域での拡がりを導いていくのだろう。

東日本大震災 大きな揺れのあとの日々    

東日本大震災 大きな揺れのあとの日々

 

 

 2011年3月11日東日本大震災が起きた当日、わたしの暮らす地域では、津波原発での被害から離れていて、大きな揺れとテレビをつけなければ、日常的にすらみえた。その日、歓送迎会をしていた連中は、電車が動かなくなったので居酒屋で飲み明かした、という話をあとからきいた。大変な被災をされた方もいるのに呑気な、とのお怒りもあろうが、どんなことが起きているのか、これからどうなるのかわからないなかで、悶々と苦痛に過ごすよりも、目の前の宴の続きをしたのだろう。

 

以後は、彼らにとっても窮屈な日々が続いた。

 

病院は、“計画停電”で、電気が使えない時間が生じるようになった。

“計画”されても、容赦なくストップされると、日常の動きも止めざるを得ない。

 電子カルテもいちど止める。

 大事なことは紙に残す。

 少しでもお互いに安心し、そのために少しでも行為率よくするには、どう動けばいいか考える、そんな毎日。

給食を配るためのエレベーターが動かない。戦術で給食を病棟に届ける。

閉鎖病棟の電子錠が閉まらない。コメディカルのスタッフが扉の前で門番をする。

 

人員配置を買えたとて、非日常に対応しきれるわけでない。

患者に伝え、協力を求める。患者も、みな、非常事態を、頭で、身体で、心で受け入れる。

緊急事態をのみこみ、耐えておられた方が多かったように思う。

 

 グループホームに試験的に泊まった彼女は、予定の泊数を超えても帰ってこられなくなった。病院までのバスもまたもに動かなかった。グルーぷホームのスタッフやメンバーと、いきなり来た非常時に耐えうるよう、実地訓練がいきなり始まった感じ。予定の倍以上の期間に伸びた試験宿泊を彼女は体験した。

 

 脳の障害のために、がまんすることが難しい方もいた。病院の中にいるから、もっと不便になった街の様子はイメージもできないなかで、予定通りに返れない不甲斐なさを押しとどめられないようだった。あるおじいさんは、ケアマネや病院職員に、自宅に帰ることを留められ、「そんなばかなことあるか!」と何度も怒っていた。彼が一番世話になっていると感じている言語聴覚士が、繰り返し説得して、ようやくしぶしぶ納得した。

 

 認知症の病棟でも、建物やサポートに直接的な影響はなかったのに、翌日あたりから、なんとなく徘徊や落ち着きのない様子が増えた。その様子から、認知症で、直接的な物事の理解や、言語などでの表現は制約を請けいているが、高齢の方は多くの人生経験から得た感覚での状況理解の力が残されていて、スタッフや家族、その向こうにある社会の不安を察知されているように感じられた。

 

非日常の方法が日常になり、徐々にもとに戻ることを望みながらもこれまでとは違うものを受け入れて、落ち着いていった。

 

あの時期を、病院という建物の中でいっしょに過ごしていた方々が、いまどうしておられるだろうか。

退職予定日まで あと4ヶ月 自分がいなくなった後の準備

 転職先には、一度会社を訪問する予定になっていたが、コロナ禍ということもあり、面談は最低限にしようという配慮から連絡はメールと電話のみだった。

 現職場でも、いつもの慌ただしさに加えて、コロナ禍での混乱もあり、わたしが抜けた後の計画などしている余裕もない状況だった。

 ここ数年にわたり、新入職員の教育を続けてきた。わたしと協働して教育にあたっていた後輩には立場を移していく必要もあり、退職を伝えた。彼は他の人以上に、ショックな様子だった。「寂しい」と言ったきり、いつもは建設的な意見を述べるのだが、1ヶ月ほど新しい体制について何も語らなかったし、業務中も話しかけると憂いを漂わせた表情をしていた。

 それから今後は彼らの教育に直接的に関われないこと、わたしからの指示で動く幅を減らし、より自発的に動く幅を増やす覚悟を促すためにも退職を伝えることにした。

 

「辞めた後のことは、後の人が考える」として、自分のスタンスとしては、在職中は責務を全うする、ことに焦点を当てることにした。悔いが無いようにという自身の自己満足からの発想ではないか?と自問するが、それだけではなく決心した。病院の勤務を終えても、ソーシャルワーカーとして活動したい、アイデンティティソーシャルワーカーでありたいと思っている。ソーシャルワーカーの支援の対象は一個人にとどまらず、患者・家族・社会に対してである。また、わたしが特定の個人への支援を終結したとしても、病院の働きかけは終わらない。仲間による支援は続いていく。ソーシャルワークが展開されるこの場所がよりふさわしい支援をしていけるようにしたい。わたしはいただいてきた先輩・クライアントからいただいてきた関わりは、わたしの財産であり、この職場の財産だと思うで、そこから得た気づきがあれば出来る限りいち意見として置いていこう、示していこう、と思っている。居なくなる人にとやかく言われたくない、と思う人もいるだろう。自分がやり方を強制することがあってはならないとも思う。

 

 皆に退職を伝える前後から、極力きづいたことを後回しせずに伝ええるようにした。また、申し送りにとどまらず、手技や方策として伝えられることはまとめて伝える準備を始めた。

 

 反面、伝えても伝わらなかったり、仲間が同じところに着眼しないことに苛立った。それが自分を退職に追い込んでいった原因のひとつのようにも感じられた。ただ、嫌だから辞める、ということを誰にも言いたくなかった。自分にも周囲にも、前進する手段として自分の退職を位置づけたいと思っていた。不満と積極的な思いと、両方が存在するのだとは思うが、隠そうとしたり、無視することによってより不満は増大して抱えきれなくなりそうに感じられた。

わたしのキャリア 二度目の転職 ~医療機関を移った理由~

わたしが転職しようと思ったのはなぜか。

なぜ、これまで転職しようと思わなかったのか、なぜ転職しなかったのか。

転職について、思い巡らしてみました。

 

 

これから、就職をする方、転職を考えている方、就職・転職を支援する方々にも、

ひとつの例として足しになれば、と自分のキャリアを振り返ってみます。

 

  

キャリアの草創期 その2

~わたしが、医療機関を移った理由~

 

 

わたしが、病院勤めのソーシャルワーカーになったとき、1970年代から病院に勤めている、親くらいの年代のソーシャルワーカーがいました。ちょっと寄り道をした経歴のわたしに、先輩はソーシャルワーカーとしての基礎を背中で教え、教育を受ける機会を与え、指導をうけるチャンスを提案してくださいました。

 

 入職翌日に、市役所の女性相談員と先輩と3人で、高速を使って、退院する女性を、シェルターに送り届けました。青空の下、桜が舞っていた記憶があります。

 

 先輩は基本的なことだけ教え、あとは私が尋ねてくるのを待ってくれていました。質問すると、本や資料が必ずでてきて、古い病院でしたので、ケースのことを相談すると、その方の親世代のケース記録が出てくることもたびたびでした。院内からどうみられているか、さりげなく指摘してくれました。

 先輩ワーカーに限らず、初めて会う病院スタッフが、諦めと期待をこめて育ててくださいました。病院の事務の右も左もわからない自分に、忙しい隙間をぬって教えてくれたり、休み時間に声をかけたり、夕方当直の職員がエクセルを教えてくれたりしました。医事課のトップは、費用を払えない方の相談に、とてもおっかない顔しながら、拙いわたしの説明に耐え、交渉にのってくれました。社会も病院のしくみも、おとなの話もわからないひよっこに挑まれて、かえって仕事が増える厄介者だったでしょう。

 

 医局は、タバコのヤニで汚れたセピア色の部屋でした。部屋の入口に毎日夕方になると、MRのひとたちがはりついていて、ときどき医師に声をかけます。部屋の中では、麻雀したり、サロンのようでした。古く勤務されている先生が大半でしたが、何人か30歳代の先生方もいて、声をかけてくれたり、親切に接してくださいました。

 

 当時はまだ、看護師は、「看護婦」「看護士」と呼ばれ、今はほとんど見かけないナースキャップも存在していました。婦長さんは、威厳のあるばかりでした。若い看護婦さん同様、謎解きのような指導をされて悔しくて、病棟から壁にあたりながら帰ったりしました。ずーっと先輩ワーカーひとりだけで、病院のケースワークを担ってこられたところに来たということもあって、マンネリ化したところへの期待もあるのか、看護婦さんたちは、最初はつっけんどでも、教えを乞うように病棟に通いつめれば心をひらき、親切に知恵も手も貸してくださいました。婦長さんに、先生に、どう申言すべきかも、病棟で学んだ部分は大きいと思います。

 

 わたしを雇い入れてくれた事務長は、病院の中で福祉的な視点をもつ人間の存在が必要なことを理解しつつ、患者さんをとりいれるために福祉的な視点・対応が役立つとも思っていました。病院経営がどちらの方向に向くことになるのかを時々事務長室によんで教えてくれたり、ご自身の知っているソーシャルワーカーに会わせ、求められている役割を理解させてくださいました。

 

 ケースワークの面でも、患者さん、ご家族、関係者の方から、いろんなことを教えていただきましたが、それこそここでは紙面が足りないので、別項で綴ってまいりたいと思います。しかし、地域としても、経済的に裕福ではない地域の総合病院でしたので、低所得の方が多く、経済的な支援がほとんどでした。入院費が払えない、はおろか、外来の費用が払えない、ということも、たびたびありました。限りなくお金があるかないか、の状況の中で、医療を提供する工夫。提供する側の葛藤と、限られた選択肢の中での何をすれば生き残れるのかを考えること。だんだんそこに使命を感じ、わたしが仕えるべき場所が与えられたことを、自分でも誠意をもって受け止めて毎日過ごしていました。

 毎日が闘い、だったけれど、毎日が共に生きぬく喜びを感じさせられる病院でした。病院に同期はいなかったけれど、地域の同期や先輩に恵まれて、励まし会えていました。同期にも「天職だね」と言われ、ここでずっとやっていこう、と思っていました。

 

 そんなとき、“ひよっこ”のわたしには、わからない事件が起きました。病院の中で、「クーデター」が起きたのです。労働組合に疎まれてわたしを雇い入れてくれた事務長が追い出されてしまいました。わたしの目の前を、さみしそうに事務長は去っていきました。

 

 それからしばらくして、事務長から電話が来ました。

「そこの病院は、沈没船だからさ。早く脱出しなさい」

事務長の知り合いがいる病院への転職を勧められたのでした。

 わたしは、「沈没船でもいい」と思いました。船が沈むまでしなければならないことがある。と、決意すら感じました。そして、事務長のご厚意に感謝しつつ、打ち明けました。事務長は、残ることを了解してくれませんでした。

 

 数々の病院を危機から転じさせた方でしたが、本当に沈没船なのかどうかはわからないな、自分を追い出した病院に置いておきたくないのだろう。わたしへの期待、もあるかもしれないが、悔しさもあるかもしれない。ひよっこでも、いなくなられて補充する側の労力だってあるわけだから、と思いました。

 

 結局、拾われた恩のほうが上回って、“おとな”の説得にわたしは、負け、転職することとなりました。精神科のことを何も知らないわたしが、精神科の病院で働くことになりました。

わたしのキャリア 草創期

わたしが転職しようと思ったのはなぜか。

なぜ、これまで転職しようと思わなかったのか、なぜ転職しなかったのか。

転職について、思い巡らしてみました。

 

 

これから、就職をする方、転職を考えている方、就職・転職を支援する方々にも、

ひとつの例として足しになれば、と自分のキャリアを振り返ってみます。

 

  

キャリアの草創期

~わたしが、医療機関に勤めた理由~

 

 
わたしは、福祉学部オンリーの大学に進学しました。

精神保健福祉士が国家資格化されていなかった時代のこと。

 

 わたしは、社会福祉士の取得は考えていましたが、「精神科」という世界には、興味もありませんでした。友人は、精神科に研修にいって、身も心も打ち砕かれたような顔をしていましたが、わたしは、福祉事務所や、社会福祉協議会、総合病院で淡々と、事業や組織の仕組みを確認し、多少ワクワクしながら、クライアントに会いに行く先輩について歩き、充実した気分だったのを覚えています。

 

 卒論は、大学には失礼ながら、わたしは福祉の知識を学びたいだけで、論文を書きたいわけじゃないのにいなぁ、などと思っていました。なんとか実習記録に毛が生えたような文章を書き上げ、認めていただきました。福祉機器の普及がテーマでした。

 今よりもっともっと、医療も福祉も人手を要していた時代、「自立」のために、介護用品や補装具など福祉機器を産み出すひらめき、フィッティングさせる技術に感銘を受け、マッチングさせる仕組みを求めて、話を伺いに行きました。行った先でお世話になったの先輩方は、福祉職だけでなく理学療法士さんもおられました。介護保険もわたくし同様、「黎明期」でしたので、相談支援センター、などと銘打つところはありましたが、相談機関の整備は、中学校区にひとつなどとはいつのことか、と想像できないような地域も多くありました。

 

 どうやったら、もっと身近に、もっと適切に、もっと確実に、福祉機器が必要とする人の手に渡るか、と考えていたときに、まさにそれを模索している会社の求人が、大学の掲示板に張り出されました。医療用ガスを販売する会社でした。医療用ガスとは、呼吸器に疾患をもつ人が吸入する酸素や、手術など麻酔で使われるガス、皮膚科などで処置に使う窒素ガスなどを扱っていました。大きなボンベに充填したり病院に届けるほか、自宅で酸素吸入ができるように酸素を生成する機械(酸素濃縮器)のレンタルも行っていました。

 取引先は病院なのですが、医師の指示をもとに在宅に酸素ボンベや酸素濃縮器を届けます。それらを点検するのが、わたしの仕事でした。

 会社は、取引先の病院にかぎらず、病院ユーザーが必要としている福祉機器に目をむけていました。医療と福祉の連携がどんどん進んでいくことを見越してのことだったのでしょう。いち早く患者のニーズに沿って、販路を見極めていきたいと考えて、福祉を専攻した自分を雇い入れてくれました。会社は、ガスの充填工場と小さな事務所を関東圏域に何か所ももっていました。現地調達の配送員の人は、運び届けることはとても丁寧にされていましたが、医療経営のことなどみんなが詳しいようには見えませんでした。ライバル会社との競合の話は営業所内でとびかっていましたが、わたしには些末なサービスや数字のコントロールをしているようにしか、わたしの目には移りませんでした。同じ志をもって、同じ大学を卒業した先輩がひとりいましたが、医療の現場にある治療などについての知識を教えてくれる先輩はいませんでした。アンテナをはって社外でも知識を修得しながら地道に勉強していけば、自分のやりたいことを追うことはできたのかもしれません。その会社のホームページを、久しぶりに拝見したところ「福祉機器の販売」が業務内容にはっきりと書かれており、会社の中でも数少なかった福祉機器への関心が、数少ない人の努力や時代に乗って実を結んだのだなぁと感心しました。

 

 会社は、わたしのようなひよっこにも、将来を見込んで十分すぎる給与を与えてくれていました。小さな営業所のなかで、先輩たちも言葉遣いは荒っぽく、今なら「セクハラ」といわれるような言葉も、毎日言われましたが、わたしの学んできたことを活かしきれていないことを気にかけ、葛藤して問いただしてくれるのも毎日でした。

 そんなある日、“配送あがり”の営業所長が、わたしを取引先の総合病院に連れていきました。懇意にしている事務長のもとに連れていきました。

 

 総合病院の事務長は、ご自分のお腹の肉をつまんだり、ひっぱったりしていました。「そのうえで書き物ができるのではないか?」という疑問が、お目にかかるたび、わたしの頭を駆け巡りました。そしてお目にかかるたびに、

 営業所長「この娘(こ)を、どう使ったらいいのかわからんのですよ」

 事務長 「ふーーん。そうなのぉ?」

という、会話を挨拶代わりのようにふたりの間で始めるのです。

 

 この挨拶に、少しずつ、「資格をもってんの?」「大学ではどういうことをやったの?」などなどの質問が加わるようになり、最後には「うちに来ちゃえば?」と、質問→お誘いに。病院から営業所への帰り道、「どうする?」「いいんじゃないのぉ?」と、ちらちら、じろじろ、営業所長は私の顔を横目で見つめ、営業所に帰るや、係長に報告。はじめは「なんだそれ」でしたが、徐々に営業所一眼となって、「それがいいんじゃないの、どうすんの?」と転職に応援モードに。

 画してわたしは、営業所公認で、取引先に転職することになりました。

 

あらためてこの会話を書いてみて、なんだが江戸時代に田舎から売られてきた子の見受け物語のようだと思いました。先につづく、病院での悶着にかき消されて忘れていましたが、転職に終着するまで、わたしにも葛藤があったみたいで、数年後に友人に「あのとき、結構悩んでたよね」と言われました。

 

 で、あのときの葛藤をほじくりだして、キャリアコンサルタントのロールプレイで、演じたところ、カウンセラー役の方から「『1年も立っていないのに、へこたれるな。頑張れよ』と言ってやりたいと思った」と言われました。あとで、「これ、わたしのことです」とネタばらしすると、唖然。

 就職活動の度にも、卒後1年の経歴を“どうして転職したの?”と、困惑顔で聞かれますが、この時代劇のような話をするうちに、相手の表情が緩みます。

 

かくして、わたしは、病院勤めのソーシャルワーカーになりました。