わたしのキャリア 二度目の転職 ~医療機関を移った理由~

わたしが転職しようと思ったのはなぜか。

なぜ、これまで転職しようと思わなかったのか、なぜ転職しなかったのか。

転職について、思い巡らしてみました。

 

 

これから、就職をする方、転職を考えている方、就職・転職を支援する方々にも、

ひとつの例として足しになれば、と自分のキャリアを振り返ってみます。

 

  

キャリアの草創期 その2

~わたしが、医療機関を移った理由~

 

 

わたしが、病院勤めのソーシャルワーカーになったとき、1970年代から病院に勤めている、親くらいの年代のソーシャルワーカーがいました。ちょっと寄り道をした経歴のわたしに、先輩はソーシャルワーカーとしての基礎を背中で教え、教育を受ける機会を与え、指導をうけるチャンスを提案してくださいました。

 

 入職翌日に、市役所の女性相談員と先輩と3人で、高速を使って、退院する女性を、シェルターに送り届けました。青空の下、桜が舞っていた記憶があります。

 

 先輩は基本的なことだけ教え、あとは私が尋ねてくるのを待ってくれていました。質問すると、本や資料が必ずでてきて、古い病院でしたので、ケースのことを相談すると、その方の親世代のケース記録が出てくることもたびたびでした。院内からどうみられているか、さりげなく指摘してくれました。

 先輩ワーカーに限らず、初めて会う病院スタッフが、諦めと期待をこめて育ててくださいました。病院の事務の右も左もわからない自分に、忙しい隙間をぬって教えてくれたり、休み時間に声をかけたり、夕方当直の職員がエクセルを教えてくれたりしました。医事課のトップは、費用を払えない方の相談に、とてもおっかない顔しながら、拙いわたしの説明に耐え、交渉にのってくれました。社会も病院のしくみも、おとなの話もわからないひよっこに挑まれて、かえって仕事が増える厄介者だったでしょう。

 

 医局は、タバコのヤニで汚れたセピア色の部屋でした。部屋の入口に毎日夕方になると、MRのひとたちがはりついていて、ときどき医師に声をかけます。部屋の中では、麻雀したり、サロンのようでした。古く勤務されている先生が大半でしたが、何人か30歳代の先生方もいて、声をかけてくれたり、親切に接してくださいました。

 

 当時はまだ、看護師は、「看護婦」「看護士」と呼ばれ、今はほとんど見かけないナースキャップも存在していました。婦長さんは、威厳のあるばかりでした。若い看護婦さん同様、謎解きのような指導をされて悔しくて、病棟から壁にあたりながら帰ったりしました。ずーっと先輩ワーカーひとりだけで、病院のケースワークを担ってこられたところに来たということもあって、マンネリ化したところへの期待もあるのか、看護婦さんたちは、最初はつっけんどでも、教えを乞うように病棟に通いつめれば心をひらき、親切に知恵も手も貸してくださいました。婦長さんに、先生に、どう申言すべきかも、病棟で学んだ部分は大きいと思います。

 

 わたしを雇い入れてくれた事務長は、病院の中で福祉的な視点をもつ人間の存在が必要なことを理解しつつ、患者さんをとりいれるために福祉的な視点・対応が役立つとも思っていました。病院経営がどちらの方向に向くことになるのかを時々事務長室によんで教えてくれたり、ご自身の知っているソーシャルワーカーに会わせ、求められている役割を理解させてくださいました。

 

 ケースワークの面でも、患者さん、ご家族、関係者の方から、いろんなことを教えていただきましたが、それこそここでは紙面が足りないので、別項で綴ってまいりたいと思います。しかし、地域としても、経済的に裕福ではない地域の総合病院でしたので、低所得の方が多く、経済的な支援がほとんどでした。入院費が払えない、はおろか、外来の費用が払えない、ということも、たびたびありました。限りなくお金があるかないか、の状況の中で、医療を提供する工夫。提供する側の葛藤と、限られた選択肢の中での何をすれば生き残れるのかを考えること。だんだんそこに使命を感じ、わたしが仕えるべき場所が与えられたことを、自分でも誠意をもって受け止めて毎日過ごしていました。

 毎日が闘い、だったけれど、毎日が共に生きぬく喜びを感じさせられる病院でした。病院に同期はいなかったけれど、地域の同期や先輩に恵まれて、励まし会えていました。同期にも「天職だね」と言われ、ここでずっとやっていこう、と思っていました。

 

 そんなとき、“ひよっこ”のわたしには、わからない事件が起きました。病院の中で、「クーデター」が起きたのです。労働組合に疎まれてわたしを雇い入れてくれた事務長が追い出されてしまいました。わたしの目の前を、さみしそうに事務長は去っていきました。

 

 それからしばらくして、事務長から電話が来ました。

「そこの病院は、沈没船だからさ。早く脱出しなさい」

事務長の知り合いがいる病院への転職を勧められたのでした。

 わたしは、「沈没船でもいい」と思いました。船が沈むまでしなければならないことがある。と、決意すら感じました。そして、事務長のご厚意に感謝しつつ、打ち明けました。事務長は、残ることを了解してくれませんでした。

 

 数々の病院を危機から転じさせた方でしたが、本当に沈没船なのかどうかはわからないな、自分を追い出した病院に置いておきたくないのだろう。わたしへの期待、もあるかもしれないが、悔しさもあるかもしれない。ひよっこでも、いなくなられて補充する側の労力だってあるわけだから、と思いました。

 

 結局、拾われた恩のほうが上回って、“おとな”の説得にわたしは、負け、転職することとなりました。精神科のことを何も知らないわたしが、精神科の病院で働くことになりました。