東日本大震災から11年 「今」思うこと。
11回目の3月11日が過ぎた。
東日本大震災が起きて、この11年で、何があったろうか。
津波ですべてが押し流されていく状況と、街がさら地になったり、原発事故の影響で、人のいない集落の殺風景な光景を幾たびと目にした。泥をかきわけ、多くの人の思いと支援とが積まれて、復興とよぶにふさわしく、前を向いた歩みも起きた。今なお、ふるさとに戻れない人もあれば、ようやく戻れた人もいる。
昨今では、被せるように新型コロナウイルスの感染拡大がおきた。大切な人を失った人もいる。震災とは別のかたちで、最期のときに会えない、ということも起きている。病気そのもの影響もだが、その後遺症に苦しむ人も多い。生活の不自由さが震災とは違う形で広がり、生活が一変して収入が途絶え、死を選ぶ人も少なくない。家の中に閉じ込められ、DVなど弱い人がさらに弱められるの状況も拡大している。
直接的な健康被害をうけていないくても、世のすべての人といっても過言でないほど、みなが未曾有の事態を経験している。“予測していなかったこと”が起きれば、心への衝撃は大きい。すぐにその反応としてうつ症状がでたり、身体の不調が顕れる人もいる。すぐにでなく、日に日に負担が積もり、無自覚なうちに症状が進んでいる人もいる。次におきた出来事が引き金になって、大きく調子を崩してしまうこともある。これからも何か起きてしまうのではないか、この状態がいつまで続くのか、という不安が社会全体に蔓延している。
病院で精神保健福祉士として働いていると、気持ちのバランスを崩した人と出会うことは多い。入院患者、家族、受診や往診、これから病院を利用しようとする人とともに、どうコロナに対処していくのか、自分らの生活上の不安も抱えながら考えている。震災前後を病院で過ごした者として、今を、これからを、どう過ごすとよさそうか、はっきりとしたことはまだ言えないけれど、普段から心がけておきたいことなど、思いつくことを記録しておきたい。
日ごろから挨拶をしよう。
人は不調が起こりうることを念頭におきたい。気分の変調が起こりうること、心的負担が積もれば症状増悪の引き金になる。早めにきづくことで、早めの対処が可能である。早めに対処は、早期回復を促し、重篤化や、二次的な事故など最悪の事態の回避に繋がることを念頭において日ごろからすごしたい。
そのために、簡単にできることとしては、挨拶やちょっとした声かけがある。わたしの顔を覚えてくれている患者に、挨拶をする。覚えてくれてなくても、挨拶をする。ユニフォームを来ていれば職員だとはわかるので、不自然なことではないし、毎回やっていれば、相手の挨拶がいつもと同じか違うかくらい、こちらも感じられるようになる。もし、「何かが違う」と感じたら、その人を知る他の職員と共有する。その日特別なことがなくても、その共有した記憶が記録へとなっていく。患者の側も病院側に知っていてほしい、と信頼を寄せているひともいるし、声かけが関係をつくる一歩にもなりうる。常に観察して変化に気づく目を養う。平素のときを知らなければ変化についても気づくことはできない。変化に気づくことは、よい変化であれば次にチャンスに繋げていけるし、悪い変化であれば、さらにその後の、予兆の察知に繋げていくことができる。挨拶を意図的にしながら観察する目を養っていきたい。
病院だからこそできる安否確認
デイケアや作業療法に来ていた人が来なくなった、定期的に通院していた人が来なくなった、ということを、病院側が気づけるシステムを構築しておくべきだと思う。病院にかかる人は、ひとりで暮らしている人もある。家族と親密な関係を持てなくなった人もいる。ほぼ、病院でしか人とのコミュニケーションをとらない人もいる。「病院による精神障碍者の抱え込み」といわれるが、関わりの幅を拡げる努力は進めつつも、病気と孤独とは隣り合わせていると思う。病気のせいで社会の隅に落ち込んでしまう時、病気に一番手を伸ばしている病院がなにもできないのはおかしい。気づいた後、どうするかはそれぞれの状況にあわせたそれぞれの対応を構築するとして、まず気づくことをしっかりとすることは、機械や事務方の協力を得ればできるのではないか。かく個人の石やセラピストの気づきに任せるのではなく病院が組織としてうけとめる方法があってもいいのではと思う。反面それが個々の患者の束縛になってはならないとも思う。来なくなったときにどうするのか、SOSをどう受け止めるのかについての対話も普段から治療関係の成熟のためにも必要だと思う。
指示命令系統を意識して仕事をする。
災害時の職務は多くのことへの気づきと、対処が求められる。自分ができることを精一杯するということのほかに、みなで対処していくための伝達、意思疎通、意思統一の手段を意識することが必要だと思う。
急なできごとがあると、みなが真剣になるあまり、同じような連絡を何回もしてしまう場面がある。情報は重複して聞くことで、より確実性が確認できることもあるが、必要な連絡が、必要なタイミングでなされているかどうかの適格性も求められる。正確さを保ち、的確なタイミングでに連絡され、確認がとれることが望ましい。
それらは、方法を決めておけば、できるということでもない。緊急の事態には何からしていいかわからなくなる。普段から繰り返し行っている方法であれば、誰かが欠けてしまったこと、何かがないことも気づくことができるし、欠如しているところへの配慮を伴いながら伝達できる。
どこかに書いておいても、書いてあるものを取り出すことが身についていなければパニックに陥っているときにはなおさらできない。普段から書かなくてもしている程度のことであれば、だれかひとりの気づきがあって始めれば続いていくことができる。指示を出す人がいること、指示を出す人が誰かを周囲がわかっていること、周囲は指示を求めること、与えられた指示を勝手な解釈をせずに遂行すること、誤りや修正が必要な場合には指示をだした相手にもどるようにすることなど、指示命令系統のある組織づくり、普段からその系統にしたがって意思決定をする必要がある。病院の組織図、指示のフローチャートとあわせてそれを守れる、立ち返れる感覚を培っておくことが必要だと考える。
連絡をとりあえるネットワークの手段をいくつか用意する。
困りごとがあったとき、投げかけたらレスポンスが返ってくるネットワークをいくつか(いくつも)持っておくことが必要だと思う。院内にはいろんなネットワークがある。病棟ごとの多職種連携、委員会などの係の集まり、同じ職種のチーム、同じ階層のチームもある。それらグループが重なり合っていることを意識しすることで、ひとつのネットワークで解決しえない課題も別のネットワークで解決できる可能性を期待するアンテナをもっておきたい。
ネットワークを形成する手段は、組織のパソコンなどを用いたものもあるし、SNSもある。電話を用いたものもある。足を運んで、顔をあわせてのほうが多くの情報を伝えられることもある。さまざまな手段での伝え方があることを意識して、ひとつだめでも他の方法でやったら「三人集まれば文殊の知恵」たあることに期待したい。
ネットワークを交流させる架け橋になる。
ソーシャルワーカーはそれぞれの担当で働きつつも、別の部署に出向いたり、病院外の組織との接点をもっていたりする。きっと、院内で「あちこちに顔が利く」一人だろう。もし、複数のソーシャルワーカーがいるとしたら、その顔利きは倍々に増えるとも言える。さらに院内だけでなく、他の病院や施設、行政など機関を普段から繋いでいる、架け橋になっている自分たちだからこそ、ネットワークとネットワークをつなぎあわせて大きなネットワークにしつつもまとめていく役割を担いたい。伝達の役割を担うこととともに、他の職種に伝達の方策を伝えて、さらに別のネットワークをつくっていくなどのサポートもできると思う。
連絡のとり方に強くなる。
昨今のSNSなどコミュニケーションツールは、刻々と変化し利便性のあがるスピードも早い。コロナ禍で、なおさら発展を遂げているように見受けられる。多くの人に伝える必要性、多くの人から伝えられる必要性があるから、ソーシャルワーカーもコミュニケーションツールの活用の幅も増やしていきたい。若い仲間のほうが柔軟にとりいれていることもあるから、若い仲間にベテランが教えてもらうのも、部署内のコミュニケーションの円滑化にも繋がることも期待したい。
医療者としての自覚
病院で働く以上、患者の命を守る使命がある。土壇場で自分の命と引き換えに人の命を守る、という選択を迫られることがあるかもしれない。そのようなときに何ができるかは、個々人の能力や考えだけに拠るのではなく、運命のようなもの、その後のそれぞれの人生のために、与えられた出来事なのではないと、わたしは捉えている。
ただ、いざという時のためにも、土壇場以外は、不必要に自分の身を危険にさらさない注意も必要だろう。病院は、病気の人がいる。抵抗力の低い人がいて、病気になりやすい。病気は患者の健康を害しているとともに、自分の健康を害する怖れがある。つまり、感染症や、刺激によっておこる精神運動興奮が、職員自らの身を守る備えを常にする必要がある。基本的な感染予防の方法と手順、備品の在りかを確認しておく必要だろう。自分の身を守るということは職務の一環だと思う。
日ごろの職務の強みを生かす
ソーシャルワーカーが、大事にしていることのひとつに「強みを生かす」ということがある。私たち自身、患者さん自身が、資源になりうる。
普段と違う状況に追い込まれたとき、強みに着眼して状況を捉えなおしたうえで、エンパワメントにしていくことは、普段ソーシャルワーカーが意識し行っていることだと思う。自分たちの活動の根底を、渦中に置かれた時も発揮していこう。個々がもつ強みや、乗り越えられれば、合わせれば、さらに自信をまして大きな力にも変えられるようにも思う。
東日本大震災を経て、仲間が守ったもの、復興にとりくみ築き上げてきたものを大事にして、今も困難に立ち向かい続けるひとに寄り添い、これからにも備えていきたい。
2011年3月11日 ソーシャルワーカーの一日
もうすぐ、3月11日がやってくる。
東北大震災が起きたとき、何をしていただろうか。
精神科の病院でソーシャルワーカーをしていたわたしは、あの日、グループホームに入居しようとしている患者さんと、入居の準備にでかけた。不安と楽しみとでワクワクしてグループホームへと歩いていた、と思う。わたしも、長い入院生活から、自分の部屋をもって迎える新しい日に立ち会えることにわくわくしていた。荷ほどきをして、試しに泊まってみることにしていた。
グループホームに到着して、スタッフに声をかけ、
いよいよ、今日自分の部屋で寝るんだねぇ、という会話をして、
「彼女の」部屋に向かった。
届いた真新しい若草色の布団をビニールのシートから出そうとしたとき、大きな揺れが来た。まだ、届いたままの、一人暮らし用の家具を、配置していない部屋の中で、大きな揺れに・・・動揺した。
彼女の上に何か、落ちてきたら、これからの期待した一人暮らしが消えてしまう。
これまで一緒に築き上げてきた病院から抜け出した一人暮らしへの道を『失いたくない!』という一瞬の叫びが、わたしの心を駆け巡って、わたしは、うずくまった彼女に布団をかけ、そのうえから覆いかぶさった。揺れはしばらくして収まった。部屋からでてみたが、いつものグループホームの外の景色。いつもと変わりはなかった。
スタッフルームに行ってみた。
スタッフ 「だいじょうぶでしたか? だいぶ大きかったですよね」
わたし 「大丈夫。他の人は? みんなに声をかけたほうがいいかも」
グループホームの住人は、みな、なんらかの精神障害がある。それ以外のことは、みな様々。性別、年齢、仕事を「していた/してない」、一人暮らし「初めて/ベテラン」、家族「いる/いない」などなど。すべて様々。ゆえにバックグラウンドはある程度知っているけど、地震「怖い(苦手)/怖くない(まぁまぁ大丈夫」までは知らない。病気と闘い、自分らしい生活を手に入れるために退院を目指すのにも、多くのチャレンジを要する人もいる。そして、入居してから皆、多かれ少なかれ、それぞれの課題や困難を乗り越えてきている。スタッフや、訪問看護、作業所など通所先の職員とか、誰かが伴いながら生活している。ひとりで戦うよりも、容易に乗り越えられたはずだ。イレギュラーな出来事にも「居るよ!」ということが伝われば、不安は増大しないだろう、と推測した。いま、起きている事態は、彼らも、自分もよく把握できていない、この、大きな揺れを、どう乗り越えていけばいいだろうか。でも、今度はひとりじゃない。一緒にだ、と、言い聞かせながら、メンバーの居室を訪問し、安否を確認した。すでにホームに居た人は、怪我もなく無事だったが、お留守の人もいた。しばらくして「ただいま」と、声がかかる。その度、スーパーの品物が落ちてきただの、店員さんが片づけていただの、おまわりさんはいつも通りいただの、道は混んでないなど、OBの誰それさんに会って揺れの話をしただの、ふんわりと、お互いの安否の確認や、街の情報をもってメンバーが帰ってくる。ひそかに、街の「非日常」が始まっていた。
そんななか、同僚からの携帯が、着信音が中途半端になっては途絶えることを繰り返し、メールが着信した。回線が混雑していた。携帯ではまともに電話できなかった。何度目かの電話がようやくつながり「病院は大丈夫。そっちは?」「全然問題ないよ」とお互いの安否をひとまず確認した。自分を心配してくれている人がいる、ということは、自分が人を心配しなければならないとき、大きく背中を押してくれる力になる。
地震発生すぐから、集会室のTVをつけた。ときどき、スタッフやメンバーが見に行った。しばらくして、恐ろしい光景がテレビに繰り返し流れ出した。濁流に街が飲み込まれる、今、起きている光景が映像で流れ出した。テロップの地名。みていたスタッフが悲鳴を挙げた。彼女の郷里が、水に飲み込まれていた。大急ぎで彼女が電話をかけだしたが繋がらなかった。被災地に限らず、日本中が揺れに、TVの光景に揺らされていた。
夕方になり、近くのバス通りを確認しに行った。路線バスはいつもと変わらず走っているようにめた。でも、わたしは帰れなかった。駅まで出ても、電車は走っていない、ということがわかってきた。出張にでていた同僚が駅前の喫茶店から、何回もメールや電話をくれた。同じ方向に帰るので、一緒に動こうと声をかけてくれたが、メールも電話も思うように届かなかった。着信ばかりが確認できて、通話はその日一度もできなかった。結局しばらくして、車をもっているスタッフが、スタッフを家まで送り届けてくれることになった。当時住んでいた街よりグループホームに近い実家まで送っていただくことになった。
その日は、暗闇のなか、ろうそくやら懐中電灯の光のもとで、わたしは両親と微妙な再会をした。
あの日 3月11日は、金曜日だった。
これからどうしていくか、すこしずつ考え始めた。
大きな揺れと、テレビを通して感じる日本中の動揺に、何が起きているのか、全容が掴めないし、自分が何をすればいいのか、わからなかった。まず、身の回りがどういうことになっているのか確認し、明日の行動計画を立てるのがやっとだ。いつもは電車で行き来したが、電車は普通に動かない。実家の車で、自宅に荷物をとりに行き、自分と親の安否のためにしばらく実家で過ごすことにした。週明け、同僚をピックアップして、職場に向かうこととした。
27年前の阪神淡路大震災を思う
医療機関でのソーシャルワーカーとしての歩みを、一旦、収束することを決めた。
自分に与えられたことはなんなのか。これまでと、今と、を考えて、整理するとともに、新たな発信を続けていかなければならないと思っている。
今日は、27年前、阪神淡路大震災が起きた日。
朝のニュースの中で、震災の日、崩壊した高架の高速道路上になんとか停車し、転落を免れた高速バスの運転手さんのインタビューが放映されていた。
ご自身の生き残された意味を問い続けられたとのことだった。
今、退職を目の前にして、学生に、同僚に、事故当時のことを語り、命の大切さを伝えておられる、とのことだった。
わたしは、当時学生だった。アルバイト先で、被災地にボランティアに向かう社員がいた。わたしは何ができるか?何をしたらいいのか?わからなかったけれど、残った店のなかで、わたしのできることで守る一端を担うくらいしかできないなぁと、思った。
東日本大震災が起きたときには、どうだっただろうか?と思った。
わたしがいる地域は、直接的に誰かが亡くなる、ということは経験しなかった。
それでも、揺るがされたのは地だけでなく、人の心が大きく揺るがされた。
そして、その影響は、長く、今でも続いている気がする。
これから、下記のことを、思い直し、書き残し、自分に問い直して記憶に留めたいと思う。
<地震が起きた日の体験>
<ソーシャルワーカーとしてできることは何か>
被災地のことを知る。
災害のただ中で思うこと、できること。
そのあとに、思うこと、できること。
備えとして、何ができるか。
<今、起き続けていること できること>
心に受けた傷を、わかちあい、癒し
仲間との繋がり
同じく時代を過ごした想いを大事に
昨日は、トンガ沖海底での噴火の影響で、日本にも津波が到達した。
被害を受けた人や、被害を思い出した人、被害を受けた人を支える人のことを思います。
日本に関わらず、今なお、命の危機にある方、伴っておられる方のことを思います。