わたしのキャリア 黎明期
わたしが転職しようと思ったのはなぜか。
なぜ、これまで転職しようと思わなかったのか、なぜ転職しなかったのか。
転職について、思いめぐらしています。
これから、就職をする方、転職を考えている方、就職・転職を支援する方々にも、
ひとつの例として足しになれば、と自分のキャリアを振り返ってみます。
~わたしのキャリア 黎明期~
わたしは、大学で社会福祉を専攻しました。
そもそも、なぜ社会福祉を専攻したかというと、
看護師にはなれないな、と気づいたから。というのが本音です。
こどものとき、「青年海外協力隊」のCMを見て、『こういうふうになりたなぁ』と思っていましたが、『こういうふうに』というのは、誰かの助けになろうと働いている人の表情に魅かれたのでした。
その思いは、棚の上においたまま、中学校では、偏差値はいくつか? どの高校に入るか?が課題でした。
そして、高校に進学し、新しい世界に馴染むこと、いい成績に近づくことに邁進。まぁ、成績は中の上くらいでしたでしょうか。2年次に文系コースと理数系コースと選択するようになっていたのですが、正直「数学」がちょっと苦手、だったので、安易に“文系”を選択。
いよいよ、目標とする大学を決めていく段になって、さてわたしは何になりたいのか?改めて考えることに。いくつか本は読んだけれど、「誰かの助けになりたい」という思いの他は、何も煮詰まらず。苦しむ人を助ける、といえば「看護師」なのかなぁ、と思いました。
親に言ってはみましたが、「そもそも理数系コースを選択していないじゃない。無理なんじゃないの?」と説き伏せられ、これまでしていなかった分を巻き返してコース変更したり、巻き返す自信もなく、文系でも選べる選択肢として「福祉」を学ぶことにしました。「福祉を学ぶ」ということがどういうことかわかっていなかったように思います。誰かの助けになるために、必要な知識や技術を教えてもらえばよかった。だから専門学校に行く、というのが、そのときのわたしには一番“理”にかなっていました。けれど、周囲が大学にいくような高校だったし、高卒の母が「大学にはいっておいたほうがいい」と、大学進学以外の選択肢は論外。福祉学部ばかり、偏差値の上から下まで、受験日をばらつかせて選び、受験しました。
今、考えれば、看護師になるのにも、道はいくつもあります。とくに病弱だったわけでもなく、家族に病人がいたわけでもなく、当時のわたしが、看護師の何を知っていただろう?と思います。もっと看護師の仕事を突き詰めて知ることをしたらば、その道のために苦手な科目を学ぶことにチャレンジしたかもしれません。逆に、思い描いたものとの違いを感じて、他の選択肢にむかっていったかもしれません。
2011年3月11日 ソーシャルワーカーの一日
もうすぐ、3月11日がやってくる。
東北大震災が起きたとき、何をしていただろうか。
精神科の病院でソーシャルワーカーをしていたわたしは、あの日、グループホームに入居しようとしている患者さんと、入居の準備にでかけた。不安と楽しみとでワクワクしてグループホームへと歩いていた、と思う。わたしも、長い入院生活から、自分の部屋をもって迎える新しい日に立ち会えることにわくわくしていた。荷ほどきをして、試しに泊まってみることにしていた。
グループホームに到着して、スタッフに声をかけ、
いよいよ、今日自分の部屋で寝るんだねぇ、という会話をして、
「彼女の」部屋に向かった。
届いた真新しい若草色の布団をビニールのシートから出そうとしたとき、大きな揺れが来た。まだ、届いたままの、一人暮らし用の家具を、配置していない部屋の中で、大きな揺れに・・・動揺した。
彼女の上に何か、落ちてきたら、これからの期待した一人暮らしが消えてしまう。
これまで一緒に築き上げてきた病院から抜け出した一人暮らしへの道を『失いたくない!』という一瞬の叫びが、わたしの心を駆け巡って、わたしは、うずくまった彼女に布団をかけ、そのうえから覆いかぶさった。揺れはしばらくして収まった。部屋からでてみたが、いつものグループホームの外の景色。いつもと変わりはなかった。
スタッフルームに行ってみた。
スタッフ 「だいじょうぶでしたか? だいぶ大きかったですよね」
わたし 「大丈夫。他の人は? みんなに声をかけたほうがいいかも」
グループホームの住人は、みな、なんらかの精神障害がある。それ以外のことは、みな様々。性別、年齢、仕事を「していた/してない」、一人暮らし「初めて/ベテラン」、家族「いる/いない」などなど。すべて様々。ゆえにバックグラウンドはある程度知っているけど、地震「怖い(苦手)/怖くない(まぁまぁ大丈夫」までは知らない。病気と闘い、自分らしい生活を手に入れるために退院を目指すのにも、多くのチャレンジを要する人もいる。そして、入居してから皆、多かれ少なかれ、それぞれの課題や困難を乗り越えてきている。スタッフや、訪問看護、作業所など通所先の職員とか、誰かが伴いながら生活している。ひとりで戦うよりも、容易に乗り越えられたはずだ。イレギュラーな出来事にも「居るよ!」ということが伝われば、不安は増大しないだろう、と推測した。いま、起きている事態は、彼らも、自分もよく把握できていない、この、大きな揺れを、どう乗り越えていけばいいだろうか。でも、今度はひとりじゃない。一緒にだ、と、言い聞かせながら、メンバーの居室を訪問し、安否を確認した。すでにホームに居た人は、怪我もなく無事だったが、お留守の人もいた。しばらくして「ただいま」と、声がかかる。その度、スーパーの品物が落ちてきただの、店員さんが片づけていただの、おまわりさんはいつも通りいただの、道は混んでないなど、OBの誰それさんに会って揺れの話をしただの、ふんわりと、お互いの安否の確認や、街の情報をもってメンバーが帰ってくる。ひそかに、街の「非日常」が始まっていた。
そんななか、同僚からの携帯が、着信音が中途半端になっては途絶えることを繰り返し、メールが着信した。回線が混雑していた。携帯ではまともに電話できなかった。何度目かの電話がようやくつながり「病院は大丈夫。そっちは?」「全然問題ないよ」とお互いの安否をひとまず確認した。自分を心配してくれている人がいる、ということは、自分が人を心配しなければならないとき、大きく背中を押してくれる力になる。
地震発生すぐから、集会室のTVをつけた。ときどき、スタッフやメンバーが見に行った。しばらくして、恐ろしい光景がテレビに繰り返し流れ出した。濁流に街が飲み込まれる、今、起きている光景が映像で流れ出した。テロップの地名。みていたスタッフが悲鳴を挙げた。彼女の郷里が、水に飲み込まれていた。大急ぎで彼女が電話をかけだしたが繋がらなかった。被災地に限らず、日本中が揺れに、TVの光景に揺らされていた。
夕方になり、近くのバス通りを確認しに行った。路線バスはいつもと変わらず走っているようにめた。でも、わたしは帰れなかった。駅まで出ても、電車は走っていない、ということがわかってきた。出張にでていた同僚が駅前の喫茶店から、何回もメールや電話をくれた。同じ方向に帰るので、一緒に動こうと声をかけてくれたが、メールも電話も思うように届かなかった。着信ばかりが確認できて、通話はその日一度もできなかった。結局しばらくして、車をもっているスタッフが、スタッフを家まで送り届けてくれることになった。当時住んでいた街よりグループホームに近い実家まで送っていただくことになった。
その日は、暗闇のなか、ろうそくやら懐中電灯の光のもとで、わたしは両親と微妙な再会をした。
あの日 3月11日は、金曜日だった。
これからどうしていくか、すこしずつ考え始めた。
大きな揺れと、テレビを通して感じる日本中の動揺に、何が起きているのか、全容が掴めないし、自分が何をすればいいのか、わからなかった。まず、身の回りがどういうことになっているのか確認し、明日の行動計画を立てるのがやっとだ。いつもは電車で行き来したが、電車は普通に動かない。実家の車で、自宅に荷物をとりに行き、自分と親の安否のためにしばらく実家で過ごすことにした。週明け、同僚をピックアップして、職場に向かうこととした。
27年前の阪神淡路大震災を思う
医療機関でのソーシャルワーカーとしての歩みを、一旦、収束することを決めた。
自分に与えられたことはなんなのか。これまでと、今と、を考えて、整理するとともに、新たな発信を続けていかなければならないと思っている。
今日は、27年前、阪神淡路大震災が起きた日。
朝のニュースの中で、震災の日、崩壊した高架の高速道路上になんとか停車し、転落を免れた高速バスの運転手さんのインタビューが放映されていた。
ご自身の生き残された意味を問い続けられたとのことだった。
今、退職を目の前にして、学生に、同僚に、事故当時のことを語り、命の大切さを伝えておられる、とのことだった。
わたしは、当時学生だった。アルバイト先で、被災地にボランティアに向かう社員がいた。わたしは何ができるか?何をしたらいいのか?わからなかったけれど、残った店のなかで、わたしのできることで守る一端を担うくらいしかできないなぁと、思った。
東日本大震災が起きたときには、どうだっただろうか?と思った。
わたしがいる地域は、直接的に誰かが亡くなる、ということは経験しなかった。
それでも、揺るがされたのは地だけでなく、人の心が大きく揺るがされた。
そして、その影響は、長く、今でも続いている気がする。
これから、下記のことを、思い直し、書き残し、自分に問い直して記憶に留めたいと思う。
<地震が起きた日の体験>
<ソーシャルワーカーとしてできることは何か>
被災地のことを知る。
災害のただ中で思うこと、できること。
そのあとに、思うこと、できること。
備えとして、何ができるか。
<今、起き続けていること できること>
心に受けた傷を、わかちあい、癒し
仲間との繋がり
同じく時代を過ごした想いを大事に
昨日は、トンガ沖海底での噴火の影響で、日本にも津波が到達した。
被害を受けた人や、被害を思い出した人、被害を受けた人を支える人のことを思います。
日本に関わらず、今なお、命の危機にある方、伴っておられる方のことを思います。
退職予定日まで あと5ヶ月 仲間に退職について話す
先の就職説明会から1か月後、就職面接に出向いた。
「無茶な話かもしれないが、それでだめならそれまでだ」と思った。勤務開始が5ヶ月でお願いしたいことを、恐る恐る伝えた。でも、履歴書の希望欄にも書いた。選考面接などから時間が空いてしまう就労希望について、転職サイトなどには、採用担当者などのコメントとして「ほしい人材なら待ちます」などと載っている。でも例外的なことだという印象はぬぐえず、企業側からしてみれば、採用のスケジュールもあり、応募者だって多くいるやもしれず、その分野の経験が十分にあるわけでもなく、自分が「ほしい人材」とは限らないと思った。
結果的には、「いつからスタートしてもらっても構わない」と言ってもらえた。未経験でも、E-ラーニングなども用い3年くらいかけての教育体制が企業側にあり、新卒の一斉採用枠ではないということと、事業展開のペースにたまたまあっていたのだろうと思うが、それらは、知り合いがいたり、業界で働いていなければわかることではないと思えた。
面接の日取りは、現職場の上にも伝えていたので、面接の翌日には上司に申し出、先の相談のとおりに退職のスケージュールを進めたいと話をした。
上司は、わたしが計画ももって言い出しているところもあり、「基本的には応援するつもり」として退職に了解を示した。退職を申し出さえすれば、「退職後のことは、後に残った人が考える」とは、やはり思えない、。現場の責任者でもないわたしが、自分がいなくなった後のことを、どう考えるのか、考える必要があるのか、とも思う。周囲は“寝耳に水”なのだから、兎に角、表明するしかない。今以上の負担を担ってもらうわけで、茫然とさせたり、怒りを買うことに怖れと、誠意をもって言うしかないという決心の間を行き来した。
上司とも相談の上、部署の活動の中核を担っている仲間と、先輩に伝えることから始めた。同期の同僚は、真剣に怒ったような表情をして、「辞めてどうするんだ?」と尋ねた。わたしの身のふりを確認すると「わかった」と言い、そのあとは、その場に居た上司に気合を入れるかのように、これからどうするかを話し出した。
現職場には、わたしにとって『先輩』とよべる人が二人いる。若いときから日々、悩みや主張を聞いてもらい、教え諭し、ときには信頼して相談もしてくれた。彼らに報告するのは、同期に伝える以上に緊張があった。これまでの恩を仇で返すように思われないかと心配した。ひとりの先輩は退職するに至ったわたしの思いを気にかけてくれた。もうひとりはあっさりと、「病院でのソーシャルワークをわかった人が、ほかの業界に居てくれるのはありがたい」と、即座に喜びを顕わしてくれた。みな、自分たちのこれからよりも、わたしの将来に思いを馳せて送り出してくれる言葉をすぐに言ってくれた。
だからと言って、あとのことを任せっぱなしにするわけにはいかないと思った。これからさき、後輩たちに辞めることを伝えないとならない。
キャリコン申請
第18回のキャリアコンサルタント試験に
合格した。
合格通知書が届いてから、
早くも1ヶ月が経とうとしている💦
💻WEBで、申請項目を入力しないとならない
意外と時間のかかる作業だ。
最近のパソコンは、一度入れた内容を
覚えて入れてくれるが、
それがもとで、、、
何度もアドレスや住所を入れ間違えた😥
登録してから、
勤務先住所が自宅住所に
なっていることに気づいた🥵
結局、WEB使ってるのに、
事務局📞。。。
丁寧に、ご対応いただき、修正🙇♀️
🖨印刷しないとならない
キャリコン養成校、通学中は、
年季の入ったプリンターを酷使して、
ガサガサな📃レポートを提出していた。
結局、今年の初売りでようやく購入。
🏣収入印紙が必要だ。
仕事をりしていると、
郵便局にはなかなか行かれない。
ネット購入できたらいいのに。
身内に頼むにしても、
慣れてない人だと緊張するだろう。
📩簡易書留にしないとならない
仕事上のことなら、難無くやるのに、
自分のことだと、投函するのもドキドキだ。
そんなこんなで、ようやく、ようやく、
申請だ。
でも、登録証が来るまでは、
キャリコン人生、始まらない 😝
転職日記 開始!
「転職」を意識して、かれこれ5年が経つ。
今年の目標は、転職に向けての二歩目を、踏み出すことだ。一歩目はすでに、昨年踏み出した。更なる一歩、踏み出したら次の足も動かさざるを得なくなる一歩になる。
二歩目の着地点が、平地なのか坂の入り口なのか、坂だとして登りが下りか、砂利なのか、岩場なのか、ぬかるみなのか、土なのか、コンクリなのかは、わからない。
どんな靴を履いて、どんな装備で、どんなスピードで?というイメージが、浮かびつつあるが、突然見ていた景色がひっくり返って、鱗が落ちたような気づきが与えられるかもしれないし、霧や靄が晴れたように朧げだったものが、明確に見えるようになるかもしれない。
いずれにしても、わたしははっきりと景色を見たいから、
今年は、歩いてみよう、と思っている。
退職予定日まで あと6ヶ月 上司に退職を申し出る
転職しようと心に決めて、転職サイトに登録し、これは!と思う就職先をみつけた。
そこで働く姿を思い浮かべ、必要なスキルが備わっているのか悩んだりしながら、普段の業務を続けている。一歩踏み出してしまうことによって、クライエントとの関係の終結し、職場の仲間たちとの人間関係の変化する。他の人からどうみられるのか、自分がどう受け止めていけるだろうかと思う。漠然とした不安に心が満たされながらも、『現状ではないところに行きたい』思いに突き動かされて、履歴書、職務経歴書を仕上げ、応募に「クリック」したところから、会社の「説明会」に参加、会社から電話が来て「面接」へと進んだ。
いろいろ考えたとして、考えているだけでは変わらない。行動してみれば、何か次のことが見えるだろう。会社から望まれなければ、今の職場にいるしかない。そうなるのなら、また時間をかけて次のことを考えるよりない。ひとまず、『現状ではないところに行く』ことができなかったときのための心づもりとして自分にいい聞かせている。
結果、面接では、自分の予測通りの会社の状況を確認し、歓迎されている感触を得て、いよいよ今の仕事の終結に取り組むことにした。
自分が、今の仕事を終わりにするとしても、周囲は終われない。仲間の活動と、患者の生活は続いていく。これまで一緒に働いてきた仲間、必要以上の負担をかけたくないし、いっしょに育ってきた仲間の成長を妨げたくはない、という思っている。
自分が次に進むこと、と、現職場が機能を果たし続けること、両立を、完全にではなくても目指したい。
わたしはこれまで20数年前に2回、転職をしている。一度目は新卒で1年後だったので、やっとさせてもらえた手伝い程度の仕事をもとにお戻しする程度のことだった。2度目は、ひとり職場に近い状態だったので、引き止めにもあい、後継が来るまでと時期を引き延ばされそうになりながら、思いつくすべての申し送りを書いて出てきた。自発的に望んだ転職でもなく、世話になった人に強く推されて始まったことだったので、後ろ髪ひかれる思いばかりであったが、「辞める人がそのあとのことを考えても仕方がない。なんとかなるものだ」と言ってくれる人もいた。
今の仕事に就いてから、10年以上経って産休に入らせてもらったときは、妊娠がわかってから出産までの時間があるわけなので、それなりに準備期間があった。わたしは十分に準備できたつもりでいた。周りも、「辞めるわけじゃないから何かあれば連絡するから」と言ってくれたが、実際は、「大変だった」そうで、安心して出産にあたらせようと気遣って課題や困難が聞かされることはなく休みを過ごさせてもらった。
本格復帰から3年。
わたし以外の誰かが辞めることになっても「なんとかするしかない」思ってやってきたし、「なんとかなってきた」と仲間と振り返ることもあった。「辞めた後のことは、後の人が考えることであって辞める人が考えることではない」と思ってきたし、仲間ともそれを分かち合ってきた。わたしが辞めたとしてもそうなってくれる、自分がいなければ、何かしなければという考えに囚われるのは驕りだろう、と思いつつ、自分に言い聞かせたが、果たして本当にそうだろうか?という問いが、自分の中の別のところから湧いている。
だからといって、『現状ではないところに行く』思いはとり消す気はないし、自分の思いも、もう後戻りできない。
せめて今、できることがあるとしたら、自分が辞めるときの準備を始めることをお願いするよりないな、と思った。
退職は、1か月前にいえば十分なのだろうか。わたしの場合「たぶんそれではだめ」な気がした。幾たび考えても「たぶんそれではだめ」な気がするので、具体的な理由は抜きにして感覚に従うことにした。譲れないと思った。無茶な話かもしれないがそれでだめならそれまでだ、今の仕事を続けて次のチャンスを狙うしかないと思って、面接の場でも6ヶ月先の就労を条件として伝えようと思った。面接を1ヶ月後に予定して、上司に退職の意向を伝えた。